鵜澤久について

プロフィール

鵜澤久

鵜澤久 写真左から 鵜澤久、鵜澤光

観世流シテ方能楽師準職分

重要無形文化財総合指定能楽保持者

銕仙会所属


昭和二十四年生まれ。

観世流職分故鵜澤雅(父)及び故観世寿夫、故八世観世銕之丞に師事。

三歳で初舞台「猩々」、十三歳初シテ「吉野天人」

昭和四十七年「乱(みだれ)」、昭和四十九年「石橋(しゃっきょう)」

昭和五十七年「道成寺」を披く。平成十年「砧」、平成十一年「求塚」

平成十五年「道成寺赤頭無躙之崩五段之舞

平成十六年「定家」

平成十八年「卒都婆小町」

平成二十一年「三輪白式神神楽

現在銕仙会を中心に舞台活動中、新しい試みの舞台活動への参加、海外公演も行っている。

平成二年より毎年川崎市文化財団主催の「こども能楽鑑賞教室」を指導、好評を得ている。

「鵜澤久の会」を主宰。

東京芸術大学邦楽科、同大学院修了。

数少ない女性の能楽師として精力的に活動している。

平成十七年川崎市文化賞を受賞・市民文化大使に任命される。



鵜澤光

昭和54年5月4日生まれ。

観世流シテ方鵜沢久の長女。

祖父は観世流シテ方職分、故鵜沢雅。

昭和57年、3歳のとき仕舞「老松」で初舞台。

平成3年、13歳のとき能「猩々」で初シテ。

平成20年「石橋・大獅子」披き。

平成14年東京芸術大学邦楽能楽専攻卒業。同年銕仙会入門。九世観世銕之丞に師事。

平成19年準職分認定。

平成20年独立。

各種媒体での紹介

「出発は無から、男女に差なし」遊女の能二題、鵜澤久が主催

能楽界が依然、男性中心であるのは確か。プロ意識を持つ女性能楽師が比較的少ない実態もある。鵜澤も、「女性であること」を突きつけられてきた。そんな中で、気づいたことがある。「出発は男女の別があっても、いったん、自分を無と化すのです。個性的な表現は、無を土壌にして生まれるもので、男女の差はないはずと、自分に言い聞かせています」
朝日新聞(2007/09/21)

能という仕事は人生の一部です

「男になりたい」小学校5年生のとき、作文にそう書いた。能楽師だった父が、自分が女だからといって、厳しく稽古をつけてくれないのが不満だったのだ。
日常的に舞台に上がる機会は、男性に比べたらまだまだ少ない。それでも、04年、22人の女性能楽師が重要無形文化財総合指定保持者に選ばれた。能楽600年の歴史の中でも、エポックとなる出来事。鵜澤さんは最年少だった。
鵜澤さんのひとり娘・光さんも、能楽師になるべく、修行中。10月、母娘は同じ舞台に立つ。
FRaU 特集「私」を生きている女性100人(2007/10/05)

母娘はよきライバル!点は線になると信じて

「娘のがんばりもあって、女性も実力で評価されるようになってきたと思います。母娘二代能楽師というのは、私たちが初めてですが、手を携えて一緒に進むというよりは、私たちはライバルであり、それぞれが点の存在です。でも、互いに芸を極めていくことで、点と点は線になり、女性能楽師という存在が普通になると信じたい」と久さんは言う。
世阿弥は、「初心」とは「初めての事に当たる未体験な状態」であると書き残している。初心は重ねていくものと、お二人は「常にゼロからスタート」と新しい挑戦を続けてきた。
明日の友 182号(2009)

一心不乱 大らかに演ず

毎年60人から70人ぐらいの子供が教室にきていますので、15年間で延べ1000人近くに関わったことになります。
この教室に参加したのをきっかけに「続けてやってみたい」という子どもには、月1回川崎能楽堂で稽古をしています。今は30人が稽古に通っています。
能がテーマとすることは古今東西変わらない事柄なので、一曲一曲の自分なりの解釈はさまざま可能です。そして年齢と共に心も体もまた変わります。そして舞台は一期一会、長い間稽古してもその時その一瞬で消え去ってしまいます。そういうところが能の魅力かもしれません。
特に観世寿夫先生と父からの影響は大きいですね。「世阿彌の再来」と言われた観世寿夫先生に私はあこがれて「稽古して欲しい」その一心でした。実際に先生に5年間教えていただきました。先生は「昭和26年に女性の能楽師が認められたが、舞台に一生立てないかもしれない。自分が捨石になってもいいという覚悟ならやりなさい。600年の伝統の中で女性能楽師が一代や二代で終わらないように」とも言われました。
この曲をどう演じるかは技術だけではない。人生に照らし合わせ、生き様がみえてくるような、もっと内面の心の部分が大事になってくる。「心・技・体」が美しいバランスをもっていくためには、これからはなお一層日々の稽古を大事にしたいと考えています。そして、能にあっては性別を超えた「個」としての表現があると私は思います。
ステージアップ10月号 川崎市生涯学習財団発行(2005/10)

卒都婆小町(鵜澤久)

この作品に、女性であることに伴う様々な困難を乗り越えてきた能楽師鵜澤久の姿が、どこか二重写しになって見えたように感じたのは筆者だけであろうか。心に蓄積されてきたエネルギーを噴出させた舞台、それも、爆発ではなくマグナのような溶解。
能楽タイムズ「秋の夜の空気 十月の舞台から 金子直樹」(2006/12/01)

「市文化賞や社会功労賞など」8個人2団体を決定

鵜澤さんは、観世流の女性能楽師として国内外で活躍し、市内でも「こども能楽体験教室」を長年指導してきた。
神奈川新聞(2005/9/21)

バンクーバー能楽公演「葵上」上演

「能は何もない舞台で始まり、何もない舞台で終わる」という鵜澤さんの言葉通り、仕舞が終わった後の舞台は一度空っぽの空間になる。地謡が登場し、囃子方が登場し、葵の上を表す装束が置かれ、観客は一気に源氏物語の世界へと引き込まれていく。能の特徴であるゆっくりとした動き、独特の節回し、能面の表情、美しくきらびやかな装束、舞台を作り上げているひとつひとつの洗練された要素に惹きつけられているうちに、クライマックスがやってくる。やがて再び何もなくなった舞台に向け大きな拍手が沸き起こる。観客の拍手と共に舞台の幕が下りるのだった。
バンクーバー新報(2007/03/01)

女性能楽師に晴れ舞台 「男の芸能」に風穴 未来担う

「私たち女性能楽師にとりまたとないチャンス。成功させたい」。観世流シテ方能楽師の鵜澤久はそう奮い立つ。
国立能楽堂は10年ほど前から小規模な女性能楽師の能会を開いてきたが、中断した。04年に、22人の女性能楽師が初めて重要無形文化財総合指定保持者に指定され、今度の企画が決まった。「男性と一緒に、能楽の未来を担ってほしい。国指定を受けて今回、定期公演シリーズとして始める」という。
鵜澤久が最年少だった。「風穴は開いた。後輩の女性能楽師たちにつなげていく責任を感じる」と言う。
朝日新聞(2007/03/20)

国立能楽堂で念願の定期公演 「女の能」流派超え考える

「子守歌のように能に接し、3歳で初舞台を踏んだのに、親は『女の子は(プロの)能楽師にはさせない』と言う。男の子なら、やりたがらなくても、やらせるのに」(鵜澤)能楽協会所属の能楽師は約1460人。そのうち女性は2割近くと見られる。今や、けいこ事して能を習う人は女性の方が多いと言われるほどだが、「女性の能」のあり方については、女性能楽師の間でも、世代や流派の違いなどによって意見が分かれる。鵜澤は「能に男も女もない。能の表現には、いわゆる女らしい表現はなく、性の差を前提とするものではない」という立場だ。
読売新聞(2007/03)

活気づく女性能楽師 鵜澤らでシリーズ第1回 24日国立能楽堂

二十二人の中でも最年少(57歳)の鵜澤は、北米公演から帰国したばかりとあって、ひとしお力がはいる。北米公演は、鵜澤らシテ方5人を含む女性能楽師を中心とした一行11人。先月17日から20日まで、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学など4大学で、能「葵上」などを上演してきた。どこも満員、スタンディング・オベーション。日本の能舞台ではありえないアンコールで、舞囃子「高砂」も披露した。「世界無形遺産に登録されたためか、能楽が着実に海外で評価を高めている」という。
東京新聞(2007/03/17)

北米公演を終えて

「人の考えを変えさせてくれるほど驚かされた体験」「大変珍しく、啓発的、刺激的な経験」今回初めて能を体験した観客から寄せられたコメントである。2月15日から26日にかけて、カナダ、アメリカの4都市でおよそ2000人がこのような新鮮な感覚に満たされた。公演ではどこの会場も満員であった。能が通じるだろうかと心配になって、観客を見渡してみると、皆が吸い込まれているように舞台を見つめているのだった。やはり、能は言葉を超えるものだった。
雑誌「観世」6月号 クリスティーナ・ラフィン:ブリティッシュコロンビア大学アジア研究学科助教授(2007/06)

技と女声と

鵜澤久は自分の女流能楽師しての枠を敢えてはずそうとする。確かな技術の裏打ちと、峻烈な心意気が彼女の舞台をいつも支えている。
能楽タイムズ「批評と感想 虚の中に生きる 村 尚也」(2007/05/01)




能楽師 鵜澤久
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