<国立能楽堂開場35周年記念 素の魅力“智恵子抄”>

 今夏、国立能楽堂開場35周年記念企画で”智恵子抄”を演じたわけだが、それについて触れる前に、27年前に演じた初めての"智恵子抄”について書いてみたいと思う。

昭和34年にこの高村光太郎作の智恵子抄が能“智恵子抄”として、故観世寿夫作曲・作舞、武智徹二演出で、飯田橋の大曲(おおまがり)にあった観世会館で初めて上演されました。その時、私の父も地謡のメンバーとして謡っていたので、私が10歳の時でしたが、謡ったりしていたこと、仕方なく覚えていたこと(つまり私にはそれが嬉しそうに見えなかった)、また、当時の舞台も“へえー!”という驚きと共に記憶の中にあります。その意外性はたぶん例えば一番最初の出したセリフが「いやなんです。あなたの行ってしまうのが。」という、寿夫先生のある種カン高く、鮮明に聞こえるその声も何人となく私の記憶に耳に残っています。モンペ姿の智恵子のその格好も!
 その後、銕仙会の新作の代表として、たびたび演じられていました。ただ、一番の能としてはその後、初演のように演じられることは様々な理由からあまりなかったように思います。能の長さでなく、省略しながら、また、装束・面を付けづに舞囃子として、主に後半と抜粋により演じられることが多かったのです。私がなかなか銕仙会公演や受託公演含め、舞台に上がらせてもらえなかった間、私はこの“智恵子抄”が上演されるた度に、これなら私がやれる、やっていいんじゃないか?!と常に思って、これも悔しい!という私の力の源の一つになっていたのかな思います。
 そして平成2年、NHKの柳澤氏から電話を頂き、(今もその時のシーン、電話をどこで取ったかなど鮮明に覚えています)「今度、NHK古典芸能鑑賞会で“智恵子抄”を取り上げることになったのですが、舞囃子形式なので、面を付けないから男の能楽師ではどっちが智恵子でどっちが光太郎なのかわからない。なので、ぜひ久さんに智恵子を演ってもらいたい。」と。なんとなく“?”でしたが、私は前述した通りの“智恵子抄”に対する積年の思いがありましたから、本当に飛び上がるほど嬉しかったことを覚えています。これまでもいつもそうですが、絶対ダメと諦めかけていたことが、見えぬ、神か?仏か?ご先祖か?の力が働いた?としか私には思えぬことが起きた時は、糠喜びにはなれません。決して気は許しません。嬉しいことよりもいやなことの方が多い中で、幾度となく喜んだ後で「なかった事になる」という経験をしていますから。本番を迎え、本番が終わるまで、信じない、そんな気持ちが大事です。もちろん、せっかくのチャンス!生かさないわけではありません!が。
 実はこの時、NHKさんが光太郎さんの役として考えていたのは、今の九世銕之丞師(当時は暁夫さん)でした。けれども、八世銕之丞師が「おれがやる!」と言われ、光太郎役を担ってくださいました。これが、初めての“智恵子抄”平成3年のことです。当時、私は散々に師からやられてもいたので、ある意味荷が重かったです。その上、当日朝、稽古能があり、お会いすると、痛風が出て、歩くのも辛そうにしておられ、従って機嫌がメチャクチャ悪く、こりゃあ参ったなぁ、せっかくの智恵子抄なのにーと思いました。申合せが本番の三時間ほど前だったが、水道橋でその場その時に突然切戸から出ない、幕から出ろ!と言われ、本当にビックリしました。今もそんなに男の人に比べれば、極端に本番の舞台上ることは少ないですが、当時はもっと少ない私でしたから、そんな臨機応変にやれる!という自信もなく、本番前ですから、只々自身を奮い立たせて、言われる通りに幕から出ました。けれども、自分で言うのも変ですが、それならそれで幕の前に立てば、腹が肝がすわります。何故かというと、自分に与えられた途方もない自由は、正に本番しかないからです。どんな状況であろうと、周りがどんなひっそく状態で壁に囲まれていようとも、観客と自分がいてそこには誰からも拘束されない無限の自由があります。解き放たれるのが本番です。つまり、その時は、私はかなり図々しく自信を持って橋掛かりを出ていったと思います。〜つづく〜

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